意識の層という言葉を聞いたことがあるでしょうか?
わたしは、意識というエネルギーには、たくさんの層があると感覚的に理解しています。
ある意識エネルギーの層で十分なことでも、ひとつ外側の層では、不十分という事となり、新たな視点でのモノの感じ方なくしては、理解できないことになります。
当然ながら、違う意識層間では、価値観の違いが生まれてしまいます。
エネルギーの壁
人の意識は、幾重にも層をなしており、ある人がある特定の層で十分と言えるエネルギーで満たされたとき、次のエネルギー層への扉が開きます。
新しい意識層の移行には、多くの場合、未知な感覚に包まれることが多く、恐怖感を感じてしまうことも少なくありません。
今までのわたしの経験とすれば、本質的には移行を望んでいながら、今までの経験、尺度で感じ取ってしまう流れがあれば、結果的に恐怖感を感じてしまうことになります。
そして、理解していこうという意志が弱ければ、エネルギーの向きが移行に向かず、逆向きになるため、そのきっかけとなったもの・人を否定するまでに至ることがあります。
「自分が正しい」という位置で物事を考え、行動していれば、違う価値観に出会ったときには否定のエネルギーが起きてきます。
そんな考えもあるのだ、という、自分にその考えやエネルギーを通してみて、違うと思えば、それとは距離を置くことが大切です。
本質的には、進む方向と感じ取っていても、その方向に踏み出すことができない場合、進みたいけど進めないというエネルギーが、逆流し、きっかけとなった物事に対して、否定的、攻撃的になってしまうようです。
意識層には、エネルギー的な壁があると感じています。
意識の層の違いがあると知識的に認識があれば、自己統制が必要になる場合もありますが、大抵の場合、悲劇は回避できます。
本質的に移行を意志するのであれば、また次の時期を見て、扉を開ける時が来ると思います。
意識層でよく聞かれるのは、顕在意識、潜在意識、深層意識などの層ですが、ここで語ろうとしているのは、エネルギーとしての意識層で、本質への理解度と言えるのかもしれません。
ただ、本質の理解度という言葉には、危険も孕んでいて、断言できることではなく、HIDEKIとしての感じ方・考え方とご理解ください。そんな考えもあるのかと読んでくださるとうれしいです。
人の意識の層
わたしたちがこどもの頃、そして若いときに読んだり、聞いたりしたことを今、思い起こしてみたとき、読み返してみたとき、当時理解できなかったこと、素通りしてきたことに新たな発見を見出すことがないでしょうか。
人は、経験や知識が増えることにより、徐々にモノの見方や感じ方に変化をもたらしていきます。それが良くも悪しくも、人の意識に大きな影響を与えていきます。
わたしたちは、日々生きて様々な経験をすることにより、考え、記憶し、思考のパターンとも言えるものを創り出していきます。
そのパターンが、独自のものであることは稀で、学校教育や両親の教育によって、社会通念としての流れに乗ることがほとんどとなります。特定の社会や文化という意識エネルギー層の中で過ごすことになります。
その中では、できること、できないことがその中で固定化され、そこから超えることを良しとしない風潮が生まれます。集合意識と呼ばれるものです。
パターン化された思考が、意識が定着してしまうと、考えること、進歩させることを止め、安定を望む方が出てきます。
パターン化したことで考えることを、疑問に思うことを止めてしまう方たちもいます。
その意識層のエネルギーとしての強固な安定に貢献します。
余談ですが、人は、潜在意識下では、脳が今までの経験から次の行動を予測して準備することが知られていて、行動は、潜在意識に支配されているという言い方もするようです。
パターン化された思考というのも、これに近いものがあります。
若い間の意識
若いうちは、自分の身を置いている意識層に関して自由度が広いことが一般的ですが、自分の感覚に疑うことがない方にとっては、そのエネルギー層に限界を感じ取ってしまう人もいます。
自由度の少ない社会では、この反応は、顕著に表れてきます。
特に若いうちは、その人の本質の感じる素直な感覚に敏感であれば、身を置いている意識層と自分の感覚での意識層には大きな隔たりがあることを感じる方も多くいらっしゃるようです。
若ければ、世間知らずと言われることもあります。
確かに世間知らずかもしれませんが、愛に開かれていない環境では、「違う」と感じ取ってしまう若者たちが多くいます。
ただ、その感覚を言葉にする術をまだ持っていません。
純粋に心で感じる素直な反応と言えるのですが、大人たちは理解することを拒絶してしまう場面が見られます。
こどもの頃には、社会の風習、世間の目という事をあまり気にしません。というより、世間を知らないため、身を置いている環境の意識層に押し込めていない状態と言えます。
知識や経験を十分に積んだ方にとって、エネルギーが充分に満たされている人にとっては、殻としての社会、閉塞感のある社会として感じてしまいます。
そのような方たちは、次の意識層に足を踏み込んでいきます。
特定の社会という集合エネルギーに押し込められることから抜け出していきます。
こどもの頃の教育は、とても大切なのは言うまでもありませんが、閉塞感のある社会環境では、こどもの頃に、意図的に、洗脳的に社会としてのエネルギー的な価値観、素晴らしさを刷り込んでいくことで、社会のエネルギー層から出られなくしてしまうことが行われています
大人の意識
人は、年齢と共に様々な経験と知識を獲得することになるのですが、世間を知ることも同時に行っています。徐々に世界が広がっていきます。
向上心を持って生きている人にとって、過去より今が進歩していることがとても重要になります。広がりはもちろんのこと、精度、という部分において、また深み、という部分においても探求します。
「自己啓発」ということが、一時大々的に取り上げられていた時期がありますが、わたしもいろいろ本を読みました。その中で、とても参考になったのは、アブラハム・マズロー氏の自己実現という考え方でした。「人間性心理学の父」と言われる、彼の考え方で最も有名なのは、「人間の欲求階層」についてで、自己実現に向かって段階を説明しています。
みなさんは、誰かの一言に、表面上の言葉の意味だけでなく、その奥に広がる深みを感じたことはないでしょうか。「一を聞いて、十を知る」の言葉のように、少しの事を知っただけで、その向こう側に広がる世界を理解することは可能です。
言葉は、エネルギーと言えます。言霊という素晴らしい考え方がありますが、言葉にも発する側にどのようなエネルギーが含まれるかによって、また、受け取る人の状態によって、その意味は変化し得るものです。
進化する意識層
わたしが理解している意識層は、数多くあります。
世代としての意識層、民族として、国として、地域としての意識層、ある種の社会的役割としての意識層、様々な種類があります。
一人の人が一つに属すという事でなく、多方向に交錯します。
そして、その意識層は、エネルギー的な質をもって、分けることができると感じています。
わたしたちの生きる社会では、いくつかの意識層が相交わりながら混在しています。
その中で、自分の位置を確かめることは、自分が属している意識層内でしかできないのが普通です。
内側は、理解できるけれど、外側は、理解の外にあります。認識はできると思います。
大人の世界は、経験から言って子供にはわかりませんいくいものです。
外側の意識層という意味は、この意味から言っても理解しにくいものです。
自分の意識層の外側を理解するとすれば、例えば、「自分がキリスト様だったら」、「マリア様だったら」と問うてみることも助けになるかもしれません。
そうすることで今の自分の最高の状態での答えが出るかもしれません。
しかし、キリスト様のどの部分まで理解できるかというと、知っていることしかありません。
共感の範囲は出ることができません。
スピリチュアルの世界では、様々な意識層を説明していますが、わたしにはよくわかりません。
理解の上限は、今現在の最高の状態のときに理解するだけで、その先はわからないという事が正直な話となります。
神意識というものがあっても、自分の想像できる神であって、実の神ではありません。
人の意識できる領域をはるかに超えていると考えるのが妥当ですから、語れたとしてもほんの一部の事でしかないという事が想像できます。
言葉のない世界だとしたら、言葉に表すことで違うものに変化してしまいます。言葉は、意識の反映でもあるからです。
本質の理解度
意識層には、たくさんの層があることは、今時点でも理解できます。
進化発展という観点から意識層を感じたとき、わたしにとって、意識層は、言葉を変えれば、本質の理解度というエネルギー層という事ができます。
わたしがどれだけ本質を理解しているのかわかりませんが、その先は永遠と思うぐらいに続いているように刷新しています。
わたしが、誰かにわたしの感覚を言葉でお伝え出来る場面では、本質的な部分でお伝えするときと、一般的な最も理解のしてもらいやすい部分でお伝えする時があります。
両者の違いは、ハッキリとあります。
例えば、苦しみ、苦悩は、一般的には、敬遠されるものとして、大切な人には味わってほしくないものとして扱われますが、場合によって、その人の本質が、苦しみ、苦悩を選択している場合があります。
その時にお伝えする内容は、2つに分けられます。お話しする方によって変わります。
医療とすれば、苦しみを和らげるのが当たり前です。命を守るのが医療の使命と言えます。
家族もできる限りのことを行いたいと思います。
しかし、本質が求めない場合もあると感じています。人それぞれの本質としての選択はあります。
人には、本質的なところでは、悲しむ自由も持っていると思っています。
変わることが良しとされますが、変わらないという選択をする方もいます。
その本質的な理解がない場合、周りからの愛情に本人の選択が変わることも、本質の選択を放棄することもあります。
周りからの想いで仕方なく、本質を抑え込んでしまうこともあります。
悲しむこと、苦しむこと、変わらないことを味わうことで、本質的な意味での充足となる場合があります。
このことを一般的に言ってしますと、まず間違いなく怒られます。
本質的なことを話すことには、とても慎重になります。
一般的には、周りの人は、その人の苦しみが解放されることを望みます。
タマシイの望むことと顕在意識で望むことに違いがあるのは、よくあることだと思っています。
人の想いは、大切です、しかし、なんでもそうですが、「良い加減」を意識しておくことが大切です。
何事も過ぎてしまうことで、バランスが崩れてしまいます。
最初からバランスを考えることも大切ですが、進度は、遅くなります。気がついたときには、バランスを取りましょう。
その人がどの意識層にあるかによって、話す内容、語られる内容は変わってきます。
怒られたり、拒絶されたりするのは、誰しも嫌なものですが、伝える必要があると感じればお伝えしております。
その結果の事は、自分の事として受け止めることが大切だと思っています。
意識層は多方向にあり、そのエネルギーの精妙さによって、ある程度分類は可能だと思います。
このことが知識としてあれば、わからない「誰かの言葉」でも、それを理解できたときには、自身のエネルギー層には精妙な質が有されていることでしょう。
「わからない」ときは、横に置いといて、その件について否定や拒絶することはもったいなく思います。
いずれ理解できたらいいな!
こんな感じが、良い加減だと思います。
以下は、YUMICOから聞いた話です。
相手のある事故が起きたとき、それは、互いの本質が合意の上、多くの愛に見守られ生じた現象です。
事故、という、互いにきつい状況下で、「相手が悪い」、「運が悪かった」では、意識の進化はありません。
自分を振り返ったときに見えてくるもの、事故にまつわる、後に続くであろう様々な現象と心境。ここにどれだけの意識変化を生むことができるのか?
これらの事を合意の上に、事故は起きることがあります。
一見、不幸に見える事故ですが、その向こう側に広がる世界は広大だと理解することが可能です。
その時、自分を振り返ることで、心の変化、意識の変化を生み続けていくことが可能となり、意識進化の波に乗ることとなります。
意識進化の波に乗るには、ガイドが必要になります。
その位置づけが、下記になります。
