通信絵画教室での質問 魂・心・直観

パステルアート(パステル画)の描き方

通信絵画教室を進めてくださっている方より素敵なご質問をいただきました。
わたしの感じること、ですのでご参考にしていただければと思います。

魂・心・直観

ー「魂の望んでいる方向へと進むこと」、「心の声に従って進むこと」、「直観に従って進むこと」の違いは何でしょうか?今までは、明確な違いをはっきりと意識したことがなく、魂・心・直観をなんとなく同じくくりで捉えていました。

普段から、魂、心、直観、それぞれの明確な違いを意識することは、なかなかありません。
そして、正確に答えというものは難しいのではないかと思いますが、わたしの感覚で言葉にしてみますね。

それぞれは、発する人の意識とそれを理解する人により、大きく変化する可能性のある言葉です。
「心」に関しては、一般的であるが故、さまざまな意味合いで使われているような気がします。
「心」は、知識・感情・意志などの精神的な働きのもとになるとされています。
その深さは計り知れず、人によって大きく違います。

 

心の純度は魂に関係している?

お考えのように、同じ人でも心の純度は、魂の声、心の声、直感(直観)、すべてに変化を与えるものだと思います。(質問された方は、心の純度が、心と魂の違いを産んでいるように思えてらっしゃいます。)

心の純度という意味は、純粋な心という意味合いだと思いますが、その状態は説明が難しく、
素直な心、その素直さの度数と言えるのではないかと思います。

 

魂とタマシイの違い

わたしの感じる「心」、「魂」という言葉には、人の顕在意識での思い込みや願望も含まれているように感じ、普段、魂という言葉は使いません。そのことを踏まえて、わたしが使用するときは、あえてタマシイ、というカタカナ表記としてます。

わたしの表現では、カタカナの持つエネルギー的意味というものが存在し、それは、ある意味神聖なエネルギーを纏いやすい表現の感覚をもって使うことが多いのです。ですから、エネルギーの純度が高い、精妙な状態での表現が、「タマシイ」であり、人の顕在、潜在意識の範囲をはるかに超えた状態で「タマシイ」と使うようにしております。

意識は、顕在しているもの、潜在しているもの、それすら超えるものがあるように感じています。その場にこそ、タマシイは存在しているように思っています。そこに、生きている人の意識は届きません。

 

直観と直感

直観と直感もまた違う意味で使っております。
端的に表現するなら、
直感は、感覚の事だけを指し、
直観は、素直な感覚とそれに対する理解をしていく意思や行動まで含ませています。

直観で絵を描くことは、感覚に素直になり、行動し、理解しようとしていくことまでが大切ですよね。直感は、感覚だけです。その後の行動はありません。
感覚を実際に体を使って行動したり、思考することが直観にあたると思ってます。
直観で絵を描くことで、すでにたくさんご経験のように、心のエネルギーは、活性化し、上昇、拡大の方向に必ずあります。

何かを行動する時、無意識に、という言葉は使いますが、心はいつも共に在ると思ってます。
直観による行動の時には、エネルギーは大きな循環の系につながっていきます。
繰り返し、繰り返し行うことでエネルギーの循環が、より強力かつ精妙になります。
その時、心のエネルギー純度も増していきます。

表現して、それを理解しようと行動することで、その流れを確実なものとして定着させ、
新たな思考、感覚を生み出していきます。

 

「魂」、「心」、その違い

「心」は、知識・感情・意志などの精神的な働きのもとになる、とされています。
「魂」は、身体に宿って心の働きをつかさどるとされるもの、とされています。

一般的に魂と心は、意識しなければ、同じような意味合いで使われることがあります。
あえて言うなら、心の奥にあるのが魂、と捉えているような気がします。

心も人によって、理解できにくいもの、正体が見えないものとしての表現をしますが、魂も同じような感じがあります。ある意味、宗教的な、神秘的な意味合いで使われるような気がします。

魂へのアクセスは、一部ではありますが、今の文明でも人が関与できる領域になっていると思います。その一つが、チャネリングと言われるものではないでしょうか。

心も魂も、その言葉には、願望や欲望、希望、期待など、
人の顕在意識下でのエネルギーが纏われている状態として理解しています。
つまり、それを理解する人の状態で大きく変化する可能性のある言葉として使っています。
(言葉は、使う人によって、受け取る人によって、変化し得るものです。)

魂の声としたとき、それを聞けるという方もいらっしゃるようですが、
わたしがタマシイの声としたとき、それは、人の理解を越えたものとしての含みがあります。
人智を越えたエネルギー場というものが存在し、人の意識では理解の及ばない領域です。

全てはエネルギーであり、共鳴域は自身の内にそのエネルギーの同調域が無いと生まれてきません。
直観による表現は、エネルギーの共鳴域を広げていく作用があります。

「魂の望んでいる方向へと進むこと」、
「心の声に従って進むこと」、
「直観に従って進むこと」の違いは、大いにあります。
しかし、一方で同じ向きを指しているようにも思います。

明確な違いを認識できることが、自身に持つエネルギーの精妙さの理解につながります。

言葉は、エネルギー表現の形態の一つです。
言葉は、ある状態のエネルギーを翻訳し、代用できる有効な手段の一つです。
エネルギーは感じるけど、言葉に表すことが難しいのは、言葉もエネルギーだという認識が少なく、言葉自体に表現領域が限られているからだと思います。

言葉、絵、音楽など表現にはそれぞれに得意なエネルギーの表現域があります。

 

心の声=魂の声?

心がそれをしたい、やってみたいと感じていても、本当の魂はそれを望んでいないケースがあるという事を知り、心の声=魂の声が必ずしも一致しないこともあるという事実に、少し衝撃を受けました。

心がワクワクする方を選びましょう、心の心地よさで生きていきましょうという言葉をよく目にしますが、魂の望みはまったく別の事を望んでいたりする場合があるのでしょうか?

心は悲しい、苦しいと感じていても、魂は成長を喜んでいことは、十分にあると思います。
それは、今生きている人としては、楽しいほうが良くて、苦しいのは現実的にしんどいので嫌、
となるのは普通の反応だと思いますが、その深く、心の変化を見ると別の面が見えてきます。

越えられなかった壁を越えられたときに人は、快感を得られるような、脳の仕組みがあると聞きます。

成長、進化に意識が向いている人にとって、苦難の先の到達点はかけがえのない場所となります。簡単に超えられる壁には、ストレスが少ない分、喜びも少ないですが、難度が高ければ、喜びも大きくなります。魂の成長の歓びという観点は、これと同じように思います。

心がワクワクする方法を選びましょうというのは、楽しさにフォーカスしておくことの重要性だと思います。

直観表現でも練習されているように、意識の方向で自身に循環するエネルギーは変わってきます。

欠点や後悔などマイナスイメージに意識を向けると、そのエネルギーに浸ってしまうことになります。これは、注意しないとマイナスのエネルギーに取り込まれてしまい、自分で抜け出すのが困難になってしまします。

心がワクワクする状態であれば、マイナスイメージに落ち込むことなく、前向きな状態のエネルギーが満ちていきます。

意識の向きは、とても大切です。ワクワクした状態が、心と身体に満ちるとき、いつの間にかマイナスと理解していたエネルギーは、前向きな明るいエネルギーへと変化していきます。

心の望みと魂の望み、これは合致していないことはよくあると思います。
共に現状での人間としての願いや好みが重なるため、願望や思い込みなどがたくさん含まれている可能性があります。

ただ、それがダメ、というわけでなく、その違いの認識ができることがとても大切なのではないかと、わたしは考えています。

例えば、ご質問の中の言葉、心の望みと魂の望み、という表現には、心に思考寄りの願望や期待が込められており、魂にという言葉には、潜在的な望み、というニュアンスが含まれているように思います。

心、魂、このことの理解具合、思い込み具合によって、言葉の受け取り方は、変わってきます。

直観表現を繰り返すことで、思い込みから解放されていく流れができていきます。
直観表現をするとき、描き始めは、タイトルなどからつながるイメージは極力なくして描き始めましょう、というのはこのためです。

思い込みを極力なくし、感覚に素直にことで、個性を持った純度の高いエネルギーを表現できるようになります。表現は、エネルギーの循環具合として観ることができます。

 

描く時の心の場所

直感で絵を描くことは、身体の感覚や反応をたいせつに、それに従って選択し行動していくことと学びましたが、その時に、心はどこにおいておけば良いのか?

直観で絵を描く時、表現する時、最初に描こうとする意志があり、方向をプログラムして描き始めます。すでにそこに心は存在しており、心の場所を意識することがない状態になっていると思います。素直な心の状態です。

心とタマシイは、当たり前にいつも共に在る、とわたしは理解しています。
そして、すでに経験してらっしゃるように直観での表現は心の純度を高めていると思います。
その繰り返しでタマシイの望む方向へ進んでいけると観じています。
その進み具合は、人それぞれだと思います。

タマシイの望む方向というのは、その人の本質の望む方向と同じ意味合いです。
心が純化していく方向にあります。

直観で描くことは、タマシイの意志するエネルギーの方向、本質が望む方向へ進んでいける、とても素晴らしい方法だと思っています。

人に輪廻転生があるとしたら、魂が輪廻転生しているとしたら、その輪廻転生が起きること自体が、タマシイの望みで起きているのではないかと思います。

例えですが、

心は、この時空間で自意識の届く範囲にあるもので、
魂は、心の奥底に在り、時空を超えるもの、
タマシイは、人間としての意識の届かない、時空を超える領域にあるもの。

簡単に言えば、こんな表現になるのではと思います。
あくまで、わたしの感覚での話です。
ご参考になさってください。

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