画家として生きる

画家のアトリエ写真 考え方

わたしが画家として生きていこうと思ったのは、23歳の時でした。

それまで勤めていたデザイン会社を辞めて、画家への道を歩き出しました。

画家になると言っても、さほど強い気持ちで画家になると思ったのでなく、絵が好きだったので、好きなことをして生きていきたいと思ったからです。

「見る人が心地良いと思える絵を描きたい」、

そう思い、歩みを始めました。

画家としての準備

それまで、絵のことを専門的に勉強したことがあるのは、デザイン科で入り口をかじる程度のもので、基本的な絵を描く技術に関して言えば、本人が納得のいく技術は持っていませんでした。画家というにはほど遠く、しばらくは、画家として活動できるようになるための、画法、画材、を含め技術の習得に生活の時間を割くようになりました。

デッサン、色鉛筆、油絵、水彩、アクリル画、墨絵、一通りの練習と技術の習得を10年ほどかけて行いました。それと並行して、国内外の有名と言われる絵画を観て回り、画家の知識も増えていきました。

画家 ピカソのゲルニカ壁画の写真

自分である程度の表現力が身についたところで、「さて、何を描こう」と思うのですが、「見る人が気持ちよいと思える絵を描きたい」は、はっきりしているのですが、具体的何を描こうとするにも目指す画風が見つかりません。国内外の画家の作品にも方向性を示してくれるものは見つかりません。「抽象絵画」が一つの方向性としてあったのですが、描き方も、感覚もよくわからず、落ち着いたのは、風景画でした。

当初は、油絵を描くことに夢中になっていました。

そんな中あるとき、自分の表現方法にヒントとなる描き方に出会うことになります。

それが、「直観で描く」というものでした。

直感で描く

「直観で描く」ことで、何かすごいエネルギーが感じられる絵ができると知った時、手探りで始めてみることになります。氣功を身近に見て観じていたわたしにとって、目に見えないエネルギーの話はとても興味を惹く事でした。描き方は、自我のない状態で描くというものでしたから、実際の描き方には、感覚がついていきませんでした。どう描いていいのかさっぱりわかりません。

何度も繰り返しているうちに、これかなという表現にだんだんと近づいているような気がしてきました。が、本人には、それがいいのか悪いのか、そのことはよくわかりません。思い立って、敏感にエネルギーを感じ取れるような人に見ていただくようになり、どうも描けているようだと確信することになったのですが、感じ取れる人、絵が好きな人、そうでもない人、実にたくさんの方に観ていただきました。いろいろな素敵なアドバイス、見当違いに思えるアドバイスも様々にいただきました。

そして、画家としての最初の個展開催。その後、個展だけでなく、お絵描き会、セミナーなども行うようになりました。

描き始めて幾重もの経験をすることで、直感で表現される絵には、その表現者としてのエネルギーの質に精神性、霊性が大きく作用することが理解できてきました。これを踏まえた上での、絵画教室やセミナーを現在も行っています。

しあわせになれる表現
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感性を育む

画家には、持って生まれた個性である絵が上手い、表現が優れていることと共に、その人の生き方、信念、こだわり、など表現としての基盤となるものがあります。絵がうまいというのは、技術で補うことが可能ですが、感覚的な表現である見えない感覚は、個性として生まれ持つ人もいますが、育てようと思い簡単に育てられるものではありません。感覚も技術も試行錯誤の上、経験によって積み上げられていくものです。画家の感じる世界観、感覚を、形にすることは、多くの時間と労力を費やすことになりがちです。

絵を観る人は、きれい、美しい、上手ということだけで魅かれることもありますが、画家の感覚を形にしようとする様々な試み、生き方に心を魅かれることも多々あります。「試行錯誤の上に成り立つ、今、目の前にある作品」という理解は、見る人に感動を与えます。

感覚的なものが表現されている絵には、一般的に理解しがたい世界が描かれていることがあります。それは、ある種の驚きとなって伝わってくる作風さえあります。

また、訳あって言葉で伝えるのでなく、別の表現方法である、絵で伝えることもあります。

画家の表現する感覚は、一般には真似のできないこととして、画家独自の世界観として、観る人に感動を与えることがあります。

画家が、自身の感覚を駆使して表現されたものは、通常では形にしにくい類のものですから、また、感覚でしか理解のしようのない領域でもあるので、その内容がどのようなものであれ、画家の表現する内容であるその感覚に触れたとき、人は心を打たれるのだと思います。何となくと感じていることを、明確に目の前に提示されたとき、驚きと感動が沸き上がってくると思います。

技術もさることながら、感覚を表現するにも、幾重にも洗練のための様々な経験を経ることになります。

いろいろな画家

画家と言っても様々な方がいらっしゃいます。技術を得意とする画家、花を独自の表現方法で表現する画家、心象風景を得意とする画家、様々な画家がいます。わたしは、他の画家と言われる方とは、今ではほとんど親交がないのですが、それぞれの持つ画家としてのスタンスの違いは、気になるところです。また、画家だけでなく、表現者であるアーティストにはいろいろな方がいらして、その多様性には素晴らしいものがあり、刺激を受けています。

わたしの場合、自分が何を描くかという視点を持ちながら、いろいろな絵を世界各地で見て回った結果、わたしの中で「これ」と響く絵は、ほとんど出会えることがなく、方向性は定まりませんでした。わたしがそれまで観た絵から感じるものは、喜び、悲しみ、自己主張、怒り、嫉妬、悲劇、情熱など、わたしが求める気持ちの良いものとは違い、しっくりこない作品がほとんどでした。

今でもたくさんの画家がいらっしゃいますが、この画家の絵は好きだなと思える方の数は少ないです。しかし人間的な魅力を持つ方はたくさんいらっしゃいます。

これはあくまで、一人の画家の好みの問題です。

いろいろあることが大切なのだと思います。

わたしの好みで一貫しているのは、「純粋な愛の光」です。

画家HIDEKIの作品

画家の感性

画家には、感覚をカタチにするという作業が常に伴います。感覚は、技術もさることながら、画家としての最も重要な要素となると思います。

何を感じて何を表現する画家なのかは、とても大切なことです。

表現の対象は、画家の数だけたくさんあると言ってもいいかもしれません。

画家は、日常で使うことのあまりない感覚を駆使する表現者と言えます。自分には到底できないことをできる人に、人は、感動をもって賞賛を与えます。作品を手に入れたいと思います。

画家の感性には、通常ではマネのできないものもたくさんあります。それは、感性主導の中で生きている者だけの持つ、特殊な環境で生きているからかもしれません。ある道のスペシャリストは、分野は違いますが、特殊な環境で生きている方が多くいます。特殊な感性を画家の表現した世界に、自身の感覚との同調域を垣間見たとき、感動が起こります。

特殊なアート

現代美術では、やったもの勝ち、と言わんばかりの、ある種の芸風を持つ作品もたくさんあります。奇抜性を良し、とする流れも確かにあります。それはそれで、驚く感性と言えます。

芸術が、一般には理解しがたいのは、その奇抜性と特殊性が相まって、より分かりにくいものとなっているのかもしれません。近寄り難いものが、芸術、アートと呼ばれていることも大いにあると思います。そのような作品の説明には、多くの言葉が必要となることも、しばしば見受けられます。そして、ある一部の権威を持つ人たちが作り上げるアートというものもあります。権威者が良いと言えば、それがそのまま価値あるアートとして認知され、一般の人も権威者がいいというのだから、とわからなくても賞賛することで、優れた画家、優れた芸術家として世の中に認知されていくこともあります。商業的な意味での作品となります。

画家の居場所

画家など表現者の持つ、一般には踏み込めない感性は、様々な分野で新たな道を開く可能性を持っており、その感性を人に理解されることは、微妙過ぎて、捉えがたいものと言えます。とは言え、人の心の響くことがなければ、迎え入れてもらえる機会を失ってしまうことになります。画家は、人の心に迎え入れてもらうための努力を怠ることなく進めていくことは、必要であると思います。

画家としての活動に広がりが見られないとき、よくありがちなのは、認めてもらえないことを受け手側のせいだけにしてしまうことで、似た考えの仲間となれ合ってしまうことではないかと思います。画家の中には、素晴らしい作品を描けるのに、認められないのは、受け入れてくれない他人のせいだと開き直ってしまう方もいるのは悲しいことです。孤立する必要はありません。時には、画家から歩み寄ることが大切です。

表現することを止められない

日本では、画家として生活できる人は、未だにごくほんの一握りの数しかいません。にもかかわらず、画家または、アーティストとして生きようとする人は、絶え間なく出てきます。

表現することを止めない。

画家である表現者は、生きることと同じ意味を感覚的に理解しているのかもしれません。

「絵を描いて、画家として暮らせるようになりたい」、よく聞く話です。

日本では本当に画家として生活することは難しいのでしょうか?

ストリート画家

画家の環境

やりたいと思うことを応援するのは、海外ではよく見られる光景です。路上の画家には、多くの人が声をかけ、チップをはずんでくれたりします。「アイデンティティー」を大切にします。主張することを良し、とします。ヨーロッパをはじめとする多文化が隣り合わせの国では、主張しなければ、消えてしまう危機感にも似た風土があります。画家を受け入れ、育てようとする環境は、日本よりはるかに整っています。

日本にあっても「アイデンティティー」を語られることではありますが、主張せずとも生きていける(何となく空気で伝わる)、和を大切にできる、風土があります。通常でない変わったことをしていれば、後ろ指をさされることは今でもみられます。独自性を応援する姿は、多くなってきたとはいえ、海外に比べるとまだまだ少ないことだと思います。

画家としての環境の差は、大きくあります。

主張する必要がある環境、主張せずとも生きていける環境、どちらにもよさはあります。

主張すれば争いが起こる可能性が高まります。主張しなければ、争いは起きないが、言いたいことが言えず、心が委縮する可能性が出てきます。

これらのことは、情報が大量に溢れ、好きな情報に手が届く日本では、その垣根は、取り払えるものだと思っています。「アイデンティティー」に目覚め、世界の実情を理解できるようになると、自分の立ち位置は理解できます。そして選択もできます。流されることなく、心から思うことをできるようになれることで状況は急速に変化します。

環境の変化

若い世代では、違うと思うことに異議を唱え、良いと思うことに声を上げることに戸惑のない人が多く現れてきます。心に素直な反応を起こしやすい純粋さを持ちます。どんな人がいて、どんな考え方があるのは、その気になれば大きく視野を広げることが可能です。モノがあふれ続け、ピークを越えた今、世の中は、心と感性の重要性に気がついています。表現者としての画家の感性は、理解しやすくなっていきます。表現者としての環境は、改善していかないわけがありません。

インターネットというツールがある今では、画家として作品を世に提示する手段は格段に増えてきました。今あるツールを使うことで、画家として生きていく方法には、たくさんの選択肢が整ってきています。世間に表現者としての歓迎を受けやすくなってきています。表現することの素晴らしさを、身をもって現すことで、多くの人の心に潤いを与えていくことになると思います。

表現することは、生きること。

このことは、全ての人に言えることだと思います。

表現とは、歓び、悲しみ、心の素直な反応。
画家に限ったことではなく。。。

この先、画家として、表現者として生活できる人が、日本でも多くなっていくことを願い、わたしは画家としての歩みを進めています。

 

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